先週どうにかこうにか、作品展のための作曲が終了した。
私のもう一つの方のブログにも書いたが、今回は疲れた。
しかし、いつもよりは満足感があるので、その疲れもよしとしよう。
さてさて、今回は武蔵野音楽大学の三年生、四年生と、大学院生が通う江古田校舎でのこと。思いでもたくさんあるため、おそらくは一回で書ききれないであろう。従ってタイトルが長くなった(笑)。
作曲学科の学生の二年生は、入間校舎から江古田校舎へ来るための(三年生になるための)条件が一つある。
それはフーガを書き、その審査に合格することである。
音大によっては入学時に既に書けなければならないであろうし、うちの大学のように入学してから本格的に勉強するところもあろう。しかし、うちの大学も入学時に作曲の試験があるわけで、いずれにせよ、入学時点で「対位法」を習得していなければ、それなりの作品を仕上げることが出来ないわけであるから、その審査がいつあろうと同じことであった。
母校の名誉のために付け加えておく(笑)。
とはいうものの、厳格フーガを一曲仕上げるとなると、それはなかなか苦労した。対位法というものは、あちらを立てればこちらが立たずとなることが多い。故にテーマを決定するにも一苦労であるし、メインのストレットも当然ながら修羅場(笑)。実を言うと(言わなくとも、私を知る人は既にご存じかとも思うが)、理論関係はあまり好きでは無く、得意でもない。きっちりと決めに決められた形式の中で書くことは苦手・・・フーガなるものは、その最たるものである。
もちろん実力ある人間ならば、そのきっちりとした枠の中で、見事なまでに自己表現出来るわけであるから、要は私の力の無さということであろう。
まあ、どうにかこういか審査にも合格し、無事に江古田校舎に通える身分となった。
正門を入る・・・高校生の折に夏期講習会に通い、憧れた大学の門をくぐった。
右手の方には記念館があり、ここは入試の際に、和声と楽曲の試験が行われたところ。正門から真っ直ぐ10mほど進むと、すぐに校舎である。入間校舎とは違い、ここは練馬区のど真ん中である。従って敷地はさほど広くはない。しかしながら、不思議と窮屈な感じはしなかった。
ホールや図書館、オーディオルーム、大教室、レッスン室、楽器博物館(大学の名物である・一般の方々も曜日によって入館できるので、機会があれば是非とも見学して欲しい)、学食と、所狭しと並んではいるのだが、配置が見事であるのか、広々とした印象が今でも十分に残っている。
入間校舎のときには、校舎から校舎の移動に時間がかかり、割と苦労したことを考えると、江古田校舎は楽なものだった。
あ、朝イチの授業が、入間校舎よりも一時間ばかり早いのが難点・・・・自宅アパートから近い分、同じはずなのだが、なぜかイヤだったな〜(笑)。
私のお気に入りの場所は、校舎二階にあるくつろぎの空間。図書館とオーディオルームに挟まれた部分で、昼になると学生が所狭しと押しかけ、弁当やパンを食べる空間に変わった。
現在では禁煙となっているが、当時は喫煙出来るスペースでもあり、灰皿がいくつも並んでいた。
学食や、校門の外の自動販売機から、缶コーヒーなどを買い、このスペースで一服し、その日あったレッスンの反省や明日の授業の対策を練る・・・・というわけでは、ほとんどなく、単に居心地の良い場所であったということ。
ただね・・・この場所は理論研究室(作曲関係の先生がいらっしゃる部屋)に近いために、お会いすると、少々居心地の悪い想いをせねばならない先生に遭遇する場合も多々あり(笑)。
「曲はできたかね?」「課題は?」
などなど・・・・それからヤマハの販売店も近くだったため、さらにさらにお会いすると都合の悪い先生にも・・・。
とは、いっても何故か居心地がよかった。会いたくない先生などといいながらも、実はお会いして叱責やイヤミを言われるのも、寧ろ楽しんでいたような気がする。
だってね〜 自分のことを気にかけてくださっていなければ、そのようなお小言やイヤミなどは発せずに、素通りされるだけですからね〜。
後期だったかな・・・作品演奏と呼ばれる単位のための審査があった。
作品を書き、それを学内のホールにて演奏。それを先生方が審査するというものである。
大学三、四年次で、何曲も書いたが、私としてはこの時のことが、特に印象深い。
編成は確か・・・ソプラノ、アルト、バリトン、バイオリン×2、フルート、それに指揮者が加わった。本人が嫌がりそうなので(笑)、名前は伏せるが、この時の指揮者、現在は○○○賞の司会なども務めるほどの実力者。
この編成でへんてこなのは、ソプラノの歌い手がバイオリンを持ち替え、バリトンの歌い手がフルートを持ち替えしたこと。しかし、無茶な指定ではない。この二人は玄人はだしにそれぞれの楽器を扱える人物。演奏は指揮者の指導力も相まって、私としては非常に満足のゆくものだった。
もちろん、この作品の演奏は、この時のメンツでなければ成り立たないし、再演など到底不可能。一人はイタリアへ行ってしまったし・・・でも、もう一度生で聴きたいな〜 と、最近よく思う。
この時の演奏者、指揮者には感謝してもしきれないものがある。本当に一生懸命に演奏してくれた。
別にこの時の演奏者だけに感謝しているわけではない。
大学時代、私の作品を演奏してくれた人間は何人もいる。その全ての人に、今でも感謝は忘れない。
大体、私の書く作品はリズムがとてつもなく難しい。ややこしい。複雑・・・プラスして、怪奇、面倒くさい、いい加減にしろ! こんなモンできるか! 楽器のこと知ってんのか! 楽器はおもちゃじゃないぞ! ってなもんで、皆様には苦労をおかけしてしまった。
もっとも現在書く作品ほどではなかったとは思うが。
まあ、大体は作品を書く前に、その作品の演奏を頼むわけだが、私の曲が、ややこしいことを人づてに聞いていながらも、たくさんの方々が演奏を引き受けてくれた。今思い出しても嬉しい。
今にして思えば、よくもこんな書き方をしていながら、演奏してくれたものだと、今更ながらに頭が下がる想い。
みんな何とか音にしてくれようと頑張ってくれた。
あらためて感謝。
あ、楽器のことも様々に彼らから教わった。
特に、関西の滋賀出身だったかな? コントラバスのK氏はどうしているだろうか? 会いたいな〜 うちにも泊まりに来てくれたことがあり、語り明かしたものだった。もし心当たりのある方は連絡くださいね。
と、いうことで、まだまだ書き足りない気がしているので、この続きはまた次回に。
作曲疲れで、どうも本日は長い文章は書けない。
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