ふるさと東京の二回目。
結局、常盤台には一年居住したわけだが、引っ越さねばならなくなった。
板橋区常盤台での生活から脱出? したのには理由がある。別にこのアパートでの生活が嫌だったわけではない。
音楽を志すものにとって致命的な(でも無いような気もするが)、ピアノが置けない部屋だったからである。
私の師匠から、「ピアノを置けるところでなければ厳しい・・・云々・・・。」ということを言われたのだ。貧乏生活者にとって引越というものは、非情に大きな負担である。そのことを併せても、やむを得ないと考え、決心するに至った。
実はこの頃、通っていた専門学校を退学して、やはり音大に行きたいという気持ちが高まっており、親に対する説得から始まり、当時の自分に足りない学習の様々な分野を、どのように勉強してゆくか考え、実行しているところだったのである。
引っ越し先の候補は迷うべくもなかった。
行きたいと考えている武蔵野音大のすぐ近く、江古田。
もちろんピアノ可物件も比較的多く、おまけに安い物件も探すことが出来そうだったからである。ということで、不動産屋を何軒も足を棒にして歩き回り、何とか三万程度の家賃のアパートを探し当てることが出来た。
狭い鉄製の階段を登り、これまた細長い廊下が続く。その奥から二番目が私の部屋だった。またまた木製の古いドア。しかし今までと決定的に違うのは、トイレがある! 私だけのトイレがあったのだ(笑)。
おまけに廊下には少しスペースがあり、ここには私の叔父からいただいた中古の洗濯機を置いた。今までのコインランドリー生活からもおさらばできたのである。
また、部屋の方は、きっちりと六畳スペースがあり、今までのまやかし六畳、実質四畳半とは大きな違い。
もちろん私の実家に置いてあったアップライトピアノも運び入れた。
ここのアパートも、もちろん古い。むちゃくちゃ古かった。
しかし、これまでに比べれば、私にとっては途方もないバージョンアップ引越であった。
ピアノが運び入れられ、そこで初めて弾いた時の感動は忘れられない。ピアノを弾くことは好きであった。しかし、一年間そばにピアノがない状態が続き、実は寂しかったことに、その時気づいたのであった。
この時が、受験のちょい後。
もし大学に合格しなかったら、何のための引越になるやら・・・。
通っていた専門学校は、既に退学することに決めていたし、背水の陣だった。落ちたとしても、もうそこに通うつもりは全くなかった。
(しかし、その専門学校をやめるための話しを教師にしたとき「落ちたら戻ってくるつもりだったんだろう! ここに来る学生は音大に行く未練は断ち切ってここにいるのに、なせ君はそうしない!」と、いう言われ方をしたものだ。もしその言葉を、その学校にいる学生が聞いたら、何と思うのか? この教師は学生の気持ちをわかって教えているのだろうか? と、疑問に思ったものだ)
そんなわけで、合格発表の日を迎えた。
合格した。この時に付き合っていた彼女や、学校の友人も喜んでくれ、非情にうれしかったことを今でも忘れない。
一年間通った専門学校。音大に行くことにはなったが、この時の専門学校での友人は、みないいやつばかり。友という貴重な宝物を手にすることが出来たのであった。
さて、ここから本格的に大学生活と作曲家修業時代第二弾(第一弾は静岡での日々。これはまたいずれ)が始まったのである。
すぐに書きたいが、この続きは今作曲中の作品が少し進んでから・・・。
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はじめまして!
返信削除blogspot、ピアノと検索してこちらに辿り着きました。
金沢在住の「萩」と申します。
同じ日本海側、雪国、ピアノ(これは足元にも及びませんが)ということで、ご挨拶の足跡を残します。
これからも、読者として読ませてくださいませ。
こんにちは萩さん。
返信削除このブログへ初めてコメントをいただきました。
まさか、コメントをくださる方がいるとは思いませんでしたので、嬉しく思っております。
金沢は一度行ってみたいところです。