私のふるさとといえば・・・いくつかある。
もちろん生まれ故郷である新潟、そしてでかくなるまで育った静岡。しかし大きな比重を占めている場所の一つは、なんといっても東京である。それも練馬区の、西武線は江古田駅界隈。
どれくらい住んだであろうか。大学に入った年からであるから、1984〜2007年までの23年間。今までの人生の中で一番長く暮らした土地ということになる。
それも前述の如く、そのほとんどを江古田駅周辺であちらこちらと(笑)。
常盤台(ここだけは江古田駅からは離れている)→旭が丘→豊玉→小茂根→新桜台といったぐあいに、板橋区と練馬区にかけて四回の引越。
みなそれぞれに思い出深いところばかり。
静岡から東京へ出てきたときは、家賃が二万ちょっとの、非情に汚い(笑)ところで、トイレは共同、風呂はもちろん無し。部屋の広さは形ばかりは六畳というが、実際は畳数枚分が異常に小さく、実質は四畳半と大して変わりはなかった。おまけに台所といえば、人一人がやっと立てるという程度のスペースで、調理台もなく、シンクとガス台(それも小さなコンロがやっと一つおける程度)置き場があるだけのもの。
古かった。とにかく古いアパートだった。二階にある共同の入り口を入ると、下駄箱があり、そこで靴を脱ぐ。スリッパに履き替え廊下を見ると、左右に木の扉が並ぶ。一番奥の方は暗くて見えない。
スリッパを履き、すぐ右の扉が私の部屋だった。壁一枚で、隣は共同トイレ。誰かの用足しの音まで聞こえてきた。天井の木はすすけて焦げ茶色をして、我が身に被さってくる勢い。窓はガラガラと音をたてながら開け閉めをする木製。
しかし、決して嫌ではなかった。実に楽しかった。
長年の夢の一部分だけが叶い、憧れた東京暮らしだったのだから。
幸いにして、こんなにも汚い部屋へ遊びに来てくれる彼女や友人たちが何人もいてくれた。
通っていた専門学校から帰ると、三合炊きの小さな炊飯器で飯を炊き、あり合わせのもので簡単なおかずを作る。金がないときは、飯を炊くときに醤油を少々入れて、炊きあがったものに鰹節をかけて食べる。または100円程度で買ってきたサンマの蒲焼きの缶詰を暖め、丼飯に盛りつける。
その程度・・・しかし美味かった!
夜になれば何日かに一回は銭湯に行き(毎日など、お金がかかってとてもとても)、深夜になると、静岡にいた頃にバイトで購入した14インチの白黒テレビを点け、ドラマなどを見る。またこの頃やっていたドラマが実に哀愁があった。あとから調べてみると、「回り舞台の上で」というタイトルだった。
私は貧乏生活はそれほど苦にはならないようだ。
しかし生活自体は貧乏であっても、少なくとも親のおかげで好きな勉強が出来ていたわけであるし、それ以上の贅沢があるものか。
この頃の自分は悲観的であったのか楽観的であったのか・・・
作曲家になりたくて東京へ出てきたのであるが、実のところは実現するとは到底思えなかった。音楽家になるためにはガキの頃から存分に音楽をたたき込まれ、常に音楽に接していた人間だけに実現可能な夢とわかってはいた。
しかし離れがたく、やるしかなく東京にまできたのである。
自分に音楽家は無理だ。わかっていた。
才能がないことなど百も承知していた。
いつ諦めることになるのか。
いつまでか・・・。
悲観的な部分が多かったのであろう。しかしあの時は不思議なくらい、楽しかった。
悲観していても楽しめるのは若さの特権であったのか。いや・・・どうだろう。今でも案外悲観絶望の中でも楽しめるのかも知れないが(笑)。
しかし、そういいながらも、やはりどこかで甘い夢は見続けていたのであろう。だからこそ続けたのであろう。そんな環境に住みながら楽しみ、そして勉強し、アルバイトをし、次のステップに行こうとしていたのであるから。
常に紙一重だったような気がする。
さて、次のステップのことは、また次回のブログにでも。
作品展のための作品も書かねばならないし、逃げてばかりはいられない状況になってきた(笑)。
2009年4月19日日曜日
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