2009年4月26日日曜日

ふるさと東京-江古田にて-1

ふるさと東京の二回目。

結局、常盤台には一年居住したわけだが、引っ越さねばならなくなった。
板橋区常盤台での生活から脱出? したのには理由がある。別にこのアパートでの生活が嫌だったわけではない。
音楽を志すものにとって致命的な(でも無いような気もするが)、ピアノが置けない部屋だったからである。
私の師匠から、「ピアノを置けるところでなければ厳しい・・・云々・・・。」ということを言われたのだ。貧乏生活者にとって引越というものは、非情に大きな負担である。そのことを併せても、やむを得ないと考え、決心するに至った。

実はこの頃、通っていた専門学校を退学して、やはり音大に行きたいという気持ちが高まっており、親に対する説得から始まり、当時の自分に足りない学習の様々な分野を、どのように勉強してゆくか考え、実行しているところだったのである。

引っ越し先の候補は迷うべくもなかった。
行きたいと考えている武蔵野音大のすぐ近く、江古田。
もちろんピアノ可物件も比較的多く、おまけに安い物件も探すことが出来そうだったからである。ということで、不動産屋を何軒も足を棒にして歩き回り、何とか三万程度の家賃のアパートを探し当てることが出来た。

狭い鉄製の階段を登り、これまた細長い廊下が続く。その奥から二番目が私の部屋だった。またまた木製の古いドア。しかし今までと決定的に違うのは、トイレがある! 私だけのトイレがあったのだ(笑)。
おまけに廊下には少しスペースがあり、ここには私の叔父からいただいた中古の洗濯機を置いた。今までのコインランドリー生活からもおさらばできたのである。
また、部屋の方は、きっちりと六畳スペースがあり、今までのまやかし六畳、実質四畳半とは大きな違い。
もちろん私の実家に置いてあったアップライトピアノも運び入れた。

ここのアパートも、もちろん古い。むちゃくちゃ古かった。
しかし、これまでに比べれば、私にとっては途方もないバージョンアップ引越であった。
ピアノが運び入れられ、そこで初めて弾いた時の感動は忘れられない。ピアノを弾くことは好きであった。しかし、一年間そばにピアノがない状態が続き、実は寂しかったことに、その時気づいたのであった。

この時が、受験のちょい後。

もし大学に合格しなかったら、何のための引越になるやら・・・。
通っていた専門学校は、既に退学することに決めていたし、背水の陣だった。落ちたとしても、もうそこに通うつもりは全くなかった。

(しかし、その専門学校をやめるための話しを教師にしたとき「落ちたら戻ってくるつもりだったんだろう! ここに来る学生は音大に行く未練は断ち切ってここにいるのに、なせ君はそうしない!」と、いう言われ方をしたものだ。もしその言葉を、その学校にいる学生が聞いたら、何と思うのか? この教師は学生の気持ちをわかって教えているのだろうか? と、疑問に思ったものだ)

そんなわけで、合格発表の日を迎えた。
合格した。この時に付き合っていた彼女や、学校の友人も喜んでくれ、非情にうれしかったことを今でも忘れない。
一年間通った専門学校。音大に行くことにはなったが、この時の専門学校での友人は、みないいやつばかり。友という貴重な宝物を手にすることが出来たのであった。

さて、ここから本格的に大学生活と作曲家修業時代第二弾(第一弾は静岡での日々。これはまたいずれ)が始まったのである。

すぐに書きたいが、この続きは今作曲中の作品が少し進んでから・・・。

2009年4月19日日曜日

ふるさと東京-常盤台にて

私のふるさとといえば・・・いくつかある。
もちろん生まれ故郷である新潟、そしてでかくなるまで育った静岡。しかし大きな比重を占めている場所の一つは、なんといっても東京である。それも練馬区の、西武線は江古田駅界隈。

どれくらい住んだであろうか。大学に入った年からであるから、1984〜2007年までの23年間。今までの人生の中で一番長く暮らした土地ということになる。
それも前述の如く、そのほとんどを江古田駅周辺であちらこちらと(笑)。
常盤台(ここだけは江古田駅からは離れている)→旭が丘→豊玉→小茂根→新桜台といったぐあいに、板橋区と練馬区にかけて四回の引越。

みなそれぞれに思い出深いところばかり。
静岡から東京へ出てきたときは、家賃が二万ちょっとの、非情に汚い(笑)ところで、トイレは共同、風呂はもちろん無し。部屋の広さは形ばかりは六畳というが、実際は畳数枚分が異常に小さく、実質は四畳半と大して変わりはなかった。おまけに台所といえば、人一人がやっと立てるという程度のスペースで、調理台もなく、シンクとガス台(それも小さなコンロがやっと一つおける程度)置き場があるだけのもの。

古かった。とにかく古いアパートだった。二階にある共同の入り口を入ると、下駄箱があり、そこで靴を脱ぐ。スリッパに履き替え廊下を見ると、左右に木の扉が並ぶ。一番奥の方は暗くて見えない。
スリッパを履き、すぐ右の扉が私の部屋だった。壁一枚で、隣は共同トイレ。誰かの用足しの音まで聞こえてきた。天井の木はすすけて焦げ茶色をして、我が身に被さってくる勢い。窓はガラガラと音をたてながら開け閉めをする木製。

しかし、決して嫌ではなかった。実に楽しかった。
長年の夢の一部分だけが叶い、憧れた東京暮らしだったのだから。
幸いにして、こんなにも汚い部屋へ遊びに来てくれる彼女や友人たちが何人もいてくれた。
通っていた専門学校から帰ると、三合炊きの小さな炊飯器で飯を炊き、あり合わせのもので簡単なおかずを作る。金がないときは、飯を炊くときに醤油を少々入れて、炊きあがったものに鰹節をかけて食べる。または100円程度で買ってきたサンマの蒲焼きの缶詰を暖め、丼飯に盛りつける。
その程度・・・しかし美味かった!

夜になれば何日かに一回は銭湯に行き(毎日など、お金がかかってとてもとても)、深夜になると、静岡にいた頃にバイトで購入した14インチの白黒テレビを点け、ドラマなどを見る。またこの頃やっていたドラマが実に哀愁があった。あとから調べてみると、「回り舞台の上で」というタイトルだった。

私は貧乏生活はそれほど苦にはならないようだ。
しかし生活自体は貧乏であっても、少なくとも親のおかげで好きな勉強が出来ていたわけであるし、それ以上の贅沢があるものか。


この頃の自分は悲観的であったのか楽観的であったのか・・・

作曲家になりたくて東京へ出てきたのであるが、実のところは実現するとは到底思えなかった。音楽家になるためにはガキの頃から存分に音楽をたたき込まれ、常に音楽に接していた人間だけに実現可能な夢とわかってはいた。
しかし離れがたく、やるしかなく東京にまできたのである。
自分に音楽家は無理だ。わかっていた。
才能がないことなど百も承知していた。
いつ諦めることになるのか。
いつまでか・・・。

悲観的な部分が多かったのであろう。しかしあの時は不思議なくらい、楽しかった。
悲観していても楽しめるのは若さの特権であったのか。いや・・・どうだろう。今でも案外悲観絶望の中でも楽しめるのかも知れないが(笑)。

しかし、そういいながらも、やはりどこかで甘い夢は見続けていたのであろう。だからこそ続けたのであろう。そんな環境に住みながら楽しみ、そして勉強し、アルバイトをし、次のステップに行こうとしていたのであるから。
常に紙一重だったような気がする。

さて、次のステップのことは、また次回のブログにでも。
作品展のための作品も書かねばならないし、逃げてばかりはいられない状況になってきた(笑)。

2009年4月16日木曜日

ネットを始めて幾星霜?

インターネットというものを始めて、もうどれくらい経つだろうか?

私が初めてパソコンを所有し、通信を始めたのが1992年頃だったろうか。あの頃はとりあえずモデムを購入したが2400bpmという速度のもので、それでも速い方だったような気がする。
もちろんインターネットなどという言葉は、あまりにも非日常的な言葉で、ほとんど聞いたこともなく、何か聞いたことがあるような単語だな〜 と、いうレベルのお話し。
全盛だったのはパソコン通信という世界。様々なBBS局が乱立し、雑誌などでそれらの特徴説明が為された。どこにアクセスしてみようかな? どんな人がいるのかな? どんなスレッドがあるのかな? と、何もかも新鮮で興味津々だったことを覚えている。

もちろん私もいくつかのBBSに参加し、実際にやってみた。
掲示板に書き込む間に、突然チャットの呼びかけがあったりしてびっくりさせられたものだ。当時は、まだブラインドタッチなど出来るわけもなく、チャットをはじめたはよいが、相手から「どうしました・・・?」などというメッセージを送られたりしたものだ。
当の私はといえば、一生懸命に特定の文字キーを捜索中(笑)。
ブラインドタッチも出来ないのにチャットに参加したのが悪い!

しかし、楽しかった。
スリルもあった。
電話代のスリルである。

今でこそネットをやるのにダイヤルアップでも無い限りは、時間を気にすることもないが、当時は時間との勝負である。チャットは週に1回などと決めておかぬと、後からとんでもない請求が「みかか」から来ることになる。
「みかか」とは、「NTT」のこと。
文字種をうっかり英文モードにせずに日本語モードのままカナ変換で打つとNTTが、みかかとなってしまうわけだ。今ではもうこれを知る人も随分と少なくなったのではないだろうか。

そして!
ついに時代はインターネットとなるわけだが。

これも最初はNIFTYの一部のサービスで、時間制である。電話代の他にプロバイダー料金も時間制でかかる。
とても貧乏人のアイテムにはなり得なかった。
しかし、インターネットって何が出来るの? と、いう時代であったし。
今でこそインターネットといわれれば、疎い人であっても多少の予想はつくであろう。しかし当時は・・・。
そうそう、出来るだけ短時間で掲示板の書込など、何から何まで済ませてしまうフリーソフトも沢山あった。

しかしインターネットになってからは、面白かったですね〜 古き良き時代のインターネット。
健全でしたし、たまに大人用のサイトがあったりすると(笑)もうびっくり! えっ!! という具合です。
しかししかししかし! その多くは有料会員専用であって、今のように・・・あわわ・・・。

それにしてもネットの速度というものは重要です。
2400→9600→14400→33600?

今では光ケーブルで、単位からして違いますからね。
昔はダウンロードされるもののほとんどはテキストだというのに、時間がかかるかかるかかる。
ちょっと10数キロのフリーソフトなどダウンロードしようものなら、とてつもない時間と、それにかかる費用を考えるストレスでもう大変でした。

今はいいですよ。
ホームページにどんなにどでかい画像があろうとも、何か重かったかな? 程度で済みますから。
しかし、何かの都合で時折ダイヤルアップなどやると、今でも思い知らされます。
ですから、自分もサイトを作るときは出来るだけでかい画像は避けるようにはしています。画像処理ソフトで出来るだけ軽くして。

あれ・・・・この文章・・・途中から何故か文体が変わってしもうた(笑)。
ま、いいか。
我慢して読んでください。と、最後に書いてもしょうがないか(爆)。