2010年1月15日金曜日

ふるさと東京-江古田にて-5(江古田界隈のこと-1)

前回の記事の最後に「前の投稿から一ヶ月半経過した・・・」というようなことを書いたが、今回は何と半年近くぶり(笑)。

私の場合、書き始めると次々にいくつも(このブログだけではないもので・・・)書いてしまうことが多々ある。しかし、書かないとなるとホント! いつまで経っても書かない。とにかく書かない。そのうち書こう書こうと思っているうちに、何ヶ月も・・・へたをすると何年も(笑)。

コンスタントに書き続ける方々は偉い! ホント尊敬いたします。

と、いうことで今回は大学時代から卒業後も含めての江古田界隈の思い出を書きつづろうと思う。


私が初めて江古田に住み着いたのは1984年で大学に入学した年である。
江古田駅北口の左右二カ所の階段のうち、右側(まあ、どっちから降りても同じ道におりるだけなので大差はない)が、私の自宅方向となっていた。
道を右に歩いてゆくと、すぐに喫茶店、パン屋、本屋、そして金魚屋さん? 右手には立ち食いそば屋(ここの立ち食いそばは、具が大きかった。とくにちくわ天をいれたソバを好んで注文したものだ)、銀行、果物屋などが並んでいた。
そしてほどなく十字路にさしかかるが、ここを右手に行くと、ほどなく踏切があり、渡った後に左側に曲がったところにはパチンコ屋があった。このパチンコ屋さんには、随分とお世話になったものだ。時には打ち止めで儲けさせてもらい、時にはなけなしの晩ご飯代が露と消え、時には夏の暑さから解放させていただき・・・・。
ちなみに、学生時代のパチンコ代収支は、プラスマイナスゼロといったところ。プラマイゼロならば御の字と思う。
あ、それから踏切を渡る前、左手には、美味しいケーキを買える「アンデルセン」があり、ここぞ! というときには、よく購入したものだ。
同様に踏切前の右手にはビルの二階にレンタルビデオ屋なんかもあり、安く借りられたこともあり、お世話になった。

これらの店で、現在も残っているのはどれだけあるだろう・・・・

さて、先ほどの十字路を左手に曲がったところには、道なりの左側に中古テレビゲーム屋さんがあり、ここもよく利用した。さんざん遊んだゲーム(当時はファミコンソフト主流)を持って行き、そこそこのお金になると、なんだか非常に儲かった気分に浸れたものである。
いくつか憶えているゲームもあるが、もしこれらをすっかりコレクションしていたら、きっとまた楽しめたであろうに・・・と、いう愚にも付かない思いに駆られたりもしている。

またまた十字路に戻り、今度は自宅のある方向。つまり直進だが、右手には日芸、左手には不動産屋、電気屋、本屋、美容院。
日芸を超えてゆくと、練馬総合病院があった。この病院には何回もお世話になりましたね。風邪、インフルエンザ、脂肪肝(いまでいうとメタボで肝臓がフォアグラ状態)、耳鳴り、尿路結石・・・
ちなみに尿路結石は辛かった。なにしろ夜中に突然にして腹が痛くなり、初めての経験の血尿、そして熱も出てくるし・・・「これはなんだなんだ? いったいどうしたんだ? ただごとではない! ほっておいたらとんでもないことになるかも・・・!?」と、慌てて自転車をこぎ、深夜の病院に駆けつけた。
そして救急で診察していただき、注射を一本。検査しないとわからないが、おそらくは結石であろうとのこと。明日の朝外来で診てもらうように・・・とのお言葉を頂戴した。
そして帰宅・・・と、いいたいところなのだが、なにしろ痛いし不安だしで、受付の方にお願いして、待合室で朝まで過ごさせていただくことにした。
で、そこのソファーというか、長いすにてうずくまっていたのだが、どうにも痛い、注射もなかなか効いてくれない。で、非常に申し訳なさそうに、受付の方をもう一回起こして、医師の診察を仰いだ。
すると、また一本注射・・・。
しばらくすると、少しは痛みは和らいだが、やはりとてもではないが帰れる状態ではなく、まんじりともせずに朝までをそこで過ごした。

そして外来の診察を受けると、簡易検査の結果はやはり尿路結石。造影剤による精密検査で後日石の大きさや部位を調べるとの診断結果だった。
「よく、この状態で自転車をこいで病院まで来たものだ」と、驚かれた。
しかし、まだ痛そうにしている私をみて先生が「楽にしてやるか!」との暖かいお言葉のもと、少々強めの痛み止めの注射をしていただき、それでとりあえずは痛みが退いてくれた。

それからは、入院せずに済むように毎日毎日たらふく水を飲み、縄跳びを何百回も跳び、痛み止めをのみ、朝方になると苦痛にうめき・・・・。
の毎日が80日間続いて、ある日「ポロッ」と排出されてくれた。

でかかったな〜 よく出たものだ。
丁度、金平糖くらいの大きさと形で、これが腹の中で動いていたのだから痛いはずだ。ご丁寧にあちこちとがっているし。

しかし! しかし!
ここからまた数年後。確か大学の四年時だったと記憶しているが、また結石に見舞われた。どうも結石というのは再発することがよくあるらしい。

だが、その二回目は何ヶ月経とうとも、とうとう排出されずじまい。
医師から「そろそろ覚悟してください」との言葉。
つまり入院して手術台に乗りなさいとの意味であった。

手術台といっても、腹を切るわけではなく、膀胱に管を挿入し、電気だったかレーザーだったかで破砕し、小さくして排出させようという治療で、危険はないもの。
しかし、手術承諾書はしっかりととられ、「万が一の時云々(表現は失念)」という、私をびびらせるには十分な内容であった。

手術台に乗ると、まずは脊髄に半身麻酔の注射。この針がやたらとぶっとい。臆病な私はびびりまくりで、消毒されただけで体がビクッと反応してしまい。看護師から「そんなに怖いの??」と、いわれたものだ。
でも、ほんとのところは、怖いこともあったが、やたらと冷たい消毒液で何の前触れもなく背中をぬぐわれたら、だれでもビクッと反応しませんかね・・・? 私だけ? やっぱり臆病なのかな。

あとは、心電図の取り付け。しかしこの心電図! 電波の飛びが悪いせいか、心音が「ぴっ・ぴっ・・・・・・ぴっびっ・・・・ぴっ・びっ・」と、やたら不安定。
麻酔科の医師であろうか。「電波の飛びが調子悪いな〜 まさかホントに心臓がこうなってるんじゃ・・・」と。
頼むから患者を必要以上にビビらせないで欲しい。

半身麻酔であるから本来ならば、手術の様子は意識のあるもとで行われるのであるが、そんなのはまっぴらごめんの私としては、事前に「手術中は眠らせてください」と、お願いしてあり、強力な眠り薬を打ってもらうことになっていた。
で、ライン確保用のチューブの途中に、その注射液の針を刺した。
医師が「のどのあたりが変な感じがしませんか?」と、いう言葉を聞き「なんか、ハッカをなめたような感じです・・・」と、私がいう。

手術は終わっていた。
つまり、「なめたような感じです・・・」を最後に、全く憶えていない。眠くなるなんていうどころの話しではなく、あっというまに意識喪失である。
薬の効き目はすごいものだ。

手術がおわってからが辛かった。
なにしろ、寝返りはうてないないし、尿道にチューブが入っているせいか、常にぱんぱんの膀胱となったような尿意を我慢しているような感じに一晩中さいなまれ、とてもではないが寝ることなど出来ない。
どうも、それはナースコールを押すレベルのものだったらしく、巡回の看護婦さんが、痛み止めを注射してくれることで、すこしだけ緩和された。
あと、喉が渇いてしかたがなかったが、その晩は一滴の水も飲むことが禁止されていたため、唇を綿でしめらせるだけで我慢。
いや〜 あの程度の治療でも結構苦しい思いをしたものだ。

しかし・・・私の受けた治療など、多くのもっと重篤な病におかされている方々の苦しみに較べたら、蚊に刺された程度なのであろう。
でも・・・辛かった。

結局、破砕された石が排出されるのにも時間がかかり、合計入院日数は12日間となった。4〜5日で退院できるはずだったんだがな〜


あれ・・・江古田の思い出が、いつのまにやら入院の思い出に(笑)。
では、江古田界隈の思いでのその2は、また後日。

2009年7月30日木曜日

ふるさと東京-江古田にて-4(江古田校舎のこと-2)

実は、まだ作曲疲れが抜けない(笑)。
私の場合は、持病? といえるかどうかわからないが、その類のものがいくつかある。一つはパニック障害、もう一つは慢性的な耳鳴り・・・耳鳴りの方は、どうも祖母の代からの遺伝らしい。
まあ、いずれに関してもなかば諦め加減ではあるが・・・。

あともう一つあった。「偏頭痛」というやつだ。これも小学生からのものであり、歳をとるごとに回数は減ったが、いつの頃からか、ただ痛いだけではなく、いやな症状が出始めた。
まず、視力に違和感を覚える。次に目の前に光り輝くようなヘンな模様が現れ、これは目を閉じても無くならず、ただひたすらに消えるのを待つしかない。そしてそのわけのわからない光模様が消えると、間もなく頭痛が始まるというわけだ。
昔は、もしやなにか重大な病気が・・・と、心配になり、医者に尋ねたりしたが、どうやら典型的な偏頭痛の症状だとのこと。これを聞けば一安心であるが、やはり嫌なものはイヤ。

と、まあこんな症状がそれぞれに少々悪化したので、出来るだけ体を休めるようにしている。


さてさて、江古田校舎の第二回目になるが、前回は何か書き足りない気がしていたのだが、いざ書き足すとなると何があったかな? などと(笑)。

作曲学科の場合、年に二回ほどの「試演会」と呼ばれる作品発表、そして文化祭での作品発表の場があったと記憶している。
実は、わたくし・・・これらの作品発表の場で「演奏拒否!」なるものの経験がある。
その時の演奏者の言葉は、今も胸に残っているな〜 「こんなの出来ない。楽器をおもちゃにせんといて」だった。

う〜む・・・今、思い起こしても別段、楽器をおもちゃにするような冒涜行為をしたつもりもないし、その作品を今見直しても、おもちゃにはしていないと思うのだが・・・ただ、今の時点で見直せば、稚拙な部分が、あることあること、加えてあることあること・・・。
しかし! しかし! そんなつもりは無い、というのはあくまでも私の主観であり、その演奏者(友人)は、とにかくその楽譜をじっくりと見て、そう思ったのだから仕方がない。
そう思われたのは、あくまでも私の責任であり、その演奏者が意地悪だったわけでも、ましてや実力不足を棚に上げて出た言葉でもないのは当然のこと。いや、むしろその演奏者は、かなりの実力者だったし、私の好む音と演奏をしてくれる人物だった。

だというのに(私の責任だというのに)・・・・・・なんということか、その演奏者、卒業式の間際だったろうか、わざわざ私に謝ってくれた。
「あの時は、本当に悪かった。申し訳なかった」と。
いや、確かにその拒否にあったとき、私としてはショックだったが、それはそれで仕方のないことと思っていたし、その作品にしても、代わって別の演奏者が見つかり、お蔵入りになったわけでもなかったのだ。
それをわざわざ謝ってくれるなんて、しかも一年以上も前のことなのに・・・彼はきっと、ずっと心に引っかかるものがあり、気にしていてくれたのであろう。
その時も、何かこちらの方が、かえって申し訳ない気分でいっぱいになった。
その時の彼にも会いたいものだ・・・・もう一度、私の作品を演奏してもらいたい。
そんな優しい気持ちを持っている彼なら、今でも素晴らしい演奏をたくさんの人間に聴かせていることであろう。
Sさ〜ん! 元気にしてますか〜!


話しは替わって。
私は団体行動や学校というものが、それまでずっと嫌いだった。
子供の時分からパニック障害もどきがあったし、いじめられっ子だったし、人見知りがあったし・・・あと「先生」というものに対して、いくつも嫌な思い出があり不信感を持っていたし。
そんなわけで、学校というものを楽しいと感じたことは、まず無かったといってもよい。
しかし、音大に入って、初めて学校って楽しい。団体行動(現代音楽同好会)も楽しい。と、思えるようになった。
なんか笑えますでしょ? この歳(当時の)になってね。

楽しかったですよ〜 志を同じくする仲間がたくさんいて、多少の変わり者も十分に許容範囲(笑)。やはり二十歳前後の人間が集まっているわけですから、互いに尊重し合うということも成り立っているわけです。
当然、私の学校嫌いだった要因も、そこには存在しませんでしたし、先生に関しても大学とは思えないような、アットホームで、尊敬できる方々がたくさんいましたから。
あと、大きいのは、やはり当時の校風でしょうね。足を引っ張り合うわけでもなく、かといって、傷をなめ合うような「なあなあ」の世界でもなく、切磋琢磨出来る部分がたくさんありました。
良い仲間がいました。

もっとも、今、この歳になって思えば、それまでの小中高が悪いところだったということでは決してありません。これは念のために強く申し添えておきます。
特に中高それに専門学校時代の友人には、今でも多少なりとも付き合いのある人間がいますし、思い起こしてもも良い思いでがいくつもあるのです。
私が周りになかなか馴染めなかったという、自分自身の問題もありますし、その他の要因が学校嫌いにさせていたわけですから。

私が新潟に引っ越してから、東京での作品展は今年で二回目でした。
去年も今年も、やはり江古田駅周辺を徘徊しました。
懐かしいものばかりです。
新しい店や建物も増えましたが、街の佇まいはやはり「江古田」です。
私の心の一つは江古田にいつまでも存在し続けるような気がしています。

今回のブログは、いつの間にか一ヶ月半も、間があったのですね。
さぼるとあっという間ですね(笑)。
次回は大学とはちょいと離れて、江古田の街だけを綴ってみようかと思っています。