2009年7月30日木曜日

ふるさと東京-江古田にて-4(江古田校舎のこと-2)

実は、まだ作曲疲れが抜けない(笑)。
私の場合は、持病? といえるかどうかわからないが、その類のものがいくつかある。一つはパニック障害、もう一つは慢性的な耳鳴り・・・耳鳴りの方は、どうも祖母の代からの遺伝らしい。
まあ、いずれに関してもなかば諦め加減ではあるが・・・。

あともう一つあった。「偏頭痛」というやつだ。これも小学生からのものであり、歳をとるごとに回数は減ったが、いつの頃からか、ただ痛いだけではなく、いやな症状が出始めた。
まず、視力に違和感を覚える。次に目の前に光り輝くようなヘンな模様が現れ、これは目を閉じても無くならず、ただひたすらに消えるのを待つしかない。そしてそのわけのわからない光模様が消えると、間もなく頭痛が始まるというわけだ。
昔は、もしやなにか重大な病気が・・・と、心配になり、医者に尋ねたりしたが、どうやら典型的な偏頭痛の症状だとのこと。これを聞けば一安心であるが、やはり嫌なものはイヤ。

と、まあこんな症状がそれぞれに少々悪化したので、出来るだけ体を休めるようにしている。


さてさて、江古田校舎の第二回目になるが、前回は何か書き足りない気がしていたのだが、いざ書き足すとなると何があったかな? などと(笑)。

作曲学科の場合、年に二回ほどの「試演会」と呼ばれる作品発表、そして文化祭での作品発表の場があったと記憶している。
実は、わたくし・・・これらの作品発表の場で「演奏拒否!」なるものの経験がある。
その時の演奏者の言葉は、今も胸に残っているな〜 「こんなの出来ない。楽器をおもちゃにせんといて」だった。

う〜む・・・今、思い起こしても別段、楽器をおもちゃにするような冒涜行為をしたつもりもないし、その作品を今見直しても、おもちゃにはしていないと思うのだが・・・ただ、今の時点で見直せば、稚拙な部分が、あることあること、加えてあることあること・・・。
しかし! しかし! そんなつもりは無い、というのはあくまでも私の主観であり、その演奏者(友人)は、とにかくその楽譜をじっくりと見て、そう思ったのだから仕方がない。
そう思われたのは、あくまでも私の責任であり、その演奏者が意地悪だったわけでも、ましてや実力不足を棚に上げて出た言葉でもないのは当然のこと。いや、むしろその演奏者は、かなりの実力者だったし、私の好む音と演奏をしてくれる人物だった。

だというのに(私の責任だというのに)・・・・・・なんということか、その演奏者、卒業式の間際だったろうか、わざわざ私に謝ってくれた。
「あの時は、本当に悪かった。申し訳なかった」と。
いや、確かにその拒否にあったとき、私としてはショックだったが、それはそれで仕方のないことと思っていたし、その作品にしても、代わって別の演奏者が見つかり、お蔵入りになったわけでもなかったのだ。
それをわざわざ謝ってくれるなんて、しかも一年以上も前のことなのに・・・彼はきっと、ずっと心に引っかかるものがあり、気にしていてくれたのであろう。
その時も、何かこちらの方が、かえって申し訳ない気分でいっぱいになった。
その時の彼にも会いたいものだ・・・・もう一度、私の作品を演奏してもらいたい。
そんな優しい気持ちを持っている彼なら、今でも素晴らしい演奏をたくさんの人間に聴かせていることであろう。
Sさ〜ん! 元気にしてますか〜!


話しは替わって。
私は団体行動や学校というものが、それまでずっと嫌いだった。
子供の時分からパニック障害もどきがあったし、いじめられっ子だったし、人見知りがあったし・・・あと「先生」というものに対して、いくつも嫌な思い出があり不信感を持っていたし。
そんなわけで、学校というものを楽しいと感じたことは、まず無かったといってもよい。
しかし、音大に入って、初めて学校って楽しい。団体行動(現代音楽同好会)も楽しい。と、思えるようになった。
なんか笑えますでしょ? この歳(当時の)になってね。

楽しかったですよ〜 志を同じくする仲間がたくさんいて、多少の変わり者も十分に許容範囲(笑)。やはり二十歳前後の人間が集まっているわけですから、互いに尊重し合うということも成り立っているわけです。
当然、私の学校嫌いだった要因も、そこには存在しませんでしたし、先生に関しても大学とは思えないような、アットホームで、尊敬できる方々がたくさんいましたから。
あと、大きいのは、やはり当時の校風でしょうね。足を引っ張り合うわけでもなく、かといって、傷をなめ合うような「なあなあ」の世界でもなく、切磋琢磨出来る部分がたくさんありました。
良い仲間がいました。

もっとも、今、この歳になって思えば、それまでの小中高が悪いところだったということでは決してありません。これは念のために強く申し添えておきます。
特に中高それに専門学校時代の友人には、今でも多少なりとも付き合いのある人間がいますし、思い起こしてもも良い思いでがいくつもあるのです。
私が周りになかなか馴染めなかったという、自分自身の問題もありますし、その他の要因が学校嫌いにさせていたわけですから。

私が新潟に引っ越してから、東京での作品展は今年で二回目でした。
去年も今年も、やはり江古田駅周辺を徘徊しました。
懐かしいものばかりです。
新しい店や建物も増えましたが、街の佇まいはやはり「江古田」です。
私の心の一つは江古田にいつまでも存在し続けるような気がしています。

今回のブログは、いつの間にか一ヶ月半も、間があったのですね。
さぼるとあっという間ですね(笑)。
次回は大学とはちょいと離れて、江古田の街だけを綴ってみようかと思っています。

2009年6月11日木曜日

ふるさと東京-江古田にて-3(江古田校舎のこと-1)

先週どうにかこうにか、作品展のための作曲が終了した。

私のもう一つの方のブログにも書いたが、今回は疲れた。
しかし、いつもよりは満足感があるので、その疲れもよしとしよう。

さてさて、今回は武蔵野音楽大学の三年生、四年生と、大学院生が通う江古田校舎でのこと。思いでもたくさんあるため、おそらくは一回で書ききれないであろう。従ってタイトルが長くなった(笑)。

作曲学科の学生の二年生は、入間校舎から江古田校舎へ来るための(三年生になるための)条件が一つある。
それはフーガを書き、その審査に合格することである。

音大によっては入学時に既に書けなければならないであろうし、うちの大学のように入学してから本格的に勉強するところもあろう。しかし、うちの大学も入学時に作曲の試験があるわけで、いずれにせよ、入学時点で「対位法」を習得していなければ、それなりの作品を仕上げることが出来ないわけであるから、その審査がいつあろうと同じことであった。
母校の名誉のために付け加えておく(笑)。

とはいうものの、厳格フーガを一曲仕上げるとなると、それはなかなか苦労した。対位法というものは、あちらを立てればこちらが立たずとなることが多い。故にテーマを決定するにも一苦労であるし、メインのストレットも当然ながら修羅場(笑)。実を言うと(言わなくとも、私を知る人は既にご存じかとも思うが)、理論関係はあまり好きでは無く、得意でもない。きっちりと決めに決められた形式の中で書くことは苦手・・・フーガなるものは、その最たるものである。
もちろん実力ある人間ならば、そのきっちりとした枠の中で、見事なまでに自己表現出来るわけであるから、要は私の力の無さということであろう。

まあ、どうにかこういか審査にも合格し、無事に江古田校舎に通える身分となった。

正門を入る・・・高校生の折に夏期講習会に通い、憧れた大学の門をくぐった。
右手の方には記念館があり、ここは入試の際に、和声と楽曲の試験が行われたところ。正門から真っ直ぐ10mほど進むと、すぐに校舎である。入間校舎とは違い、ここは練馬区のど真ん中である。従って敷地はさほど広くはない。しかしながら、不思議と窮屈な感じはしなかった。
ホールや図書館、オーディオルーム、大教室、レッスン室、楽器博物館(大学の名物である・一般の方々も曜日によって入館できるので、機会があれば是非とも見学して欲しい)、学食と、所狭しと並んではいるのだが、配置が見事であるのか、広々とした印象が今でも十分に残っている。

入間校舎のときには、校舎から校舎の移動に時間がかかり、割と苦労したことを考えると、江古田校舎は楽なものだった。
あ、朝イチの授業が、入間校舎よりも一時間ばかり早いのが難点・・・・自宅アパートから近い分、同じはずなのだが、なぜかイヤだったな〜(笑)。

私のお気に入りの場所は、校舎二階にあるくつろぎの空間。図書館とオーディオルームに挟まれた部分で、昼になると学生が所狭しと押しかけ、弁当やパンを食べる空間に変わった。
現在では禁煙となっているが、当時は喫煙出来るスペースでもあり、灰皿がいくつも並んでいた。
学食や、校門の外の自動販売機から、缶コーヒーなどを買い、このスペースで一服し、その日あったレッスンの反省や明日の授業の対策を練る・・・・というわけでは、ほとんどなく、単に居心地の良い場所であったということ。
ただね・・・この場所は理論研究室(作曲関係の先生がいらっしゃる部屋)に近いために、お会いすると、少々居心地の悪い想いをせねばならない先生に遭遇する場合も多々あり(笑)。
「曲はできたかね?」「課題は?」
などなど・・・・それからヤマハの販売店も近くだったため、さらにさらにお会いすると都合の悪い先生にも・・・。

とは、いっても何故か居心地がよかった。会いたくない先生などといいながらも、実はお会いして叱責やイヤミを言われるのも、寧ろ楽しんでいたような気がする。
だってね〜 自分のことを気にかけてくださっていなければ、そのようなお小言やイヤミなどは発せずに、素通りされるだけですからね〜。

後期だったかな・・・作品演奏と呼ばれる単位のための審査があった。
作品を書き、それを学内のホールにて演奏。それを先生方が審査するというものである。
大学三、四年次で、何曲も書いたが、私としてはこの時のことが、特に印象深い。
編成は確か・・・ソプラノ、アルト、バリトン、バイオリン×2、フルート、それに指揮者が加わった。本人が嫌がりそうなので(笑)、名前は伏せるが、この時の指揮者、現在は○○○賞の司会なども務めるほどの実力者。
この編成でへんてこなのは、ソプラノの歌い手がバイオリンを持ち替え、バリトンの歌い手がフルートを持ち替えしたこと。しかし、無茶な指定ではない。この二人は玄人はだしにそれぞれの楽器を扱える人物。演奏は指揮者の指導力も相まって、私としては非常に満足のゆくものだった。
もちろん、この作品の演奏は、この時のメンツでなければ成り立たないし、再演など到底不可能。一人はイタリアへ行ってしまったし・・・でも、もう一度生で聴きたいな〜 と、最近よく思う。
この時の演奏者、指揮者には感謝してもしきれないものがある。本当に一生懸命に演奏してくれた。

別にこの時の演奏者だけに感謝しているわけではない。
大学時代、私の作品を演奏してくれた人間は何人もいる。その全ての人に、今でも感謝は忘れない。

大体、私の書く作品はリズムがとてつもなく難しい。ややこしい。複雑・・・プラスして、怪奇、面倒くさい、いい加減にしろ! こんなモンできるか! 楽器のこと知ってんのか! 楽器はおもちゃじゃないぞ! ってなもんで、皆様には苦労をおかけしてしまった。
もっとも現在書く作品ほどではなかったとは思うが。
まあ、大体は作品を書く前に、その作品の演奏を頼むわけだが、私の曲が、ややこしいことを人づてに聞いていながらも、たくさんの方々が演奏を引き受けてくれた。今思い出しても嬉しい。
今にして思えば、よくもこんな書き方をしていながら、演奏してくれたものだと、今更ながらに頭が下がる想い。
みんな何とか音にしてくれようと頑張ってくれた。
あらためて感謝。

あ、楽器のことも様々に彼らから教わった。
特に、関西の滋賀出身だったかな? コントラバスのK氏はどうしているだろうか? 会いたいな〜 うちにも泊まりに来てくれたことがあり、語り明かしたものだった。もし心当たりのある方は連絡くださいね。

と、いうことで、まだまだ書き足りない気がしているので、この続きはまた次回に。
作曲疲れで、どうも本日は長い文章は書けない。