実は、まだ作曲疲れが抜けない(笑)。
私の場合は、持病? といえるかどうかわからないが、その類のものがいくつかある。一つはパニック障害、もう一つは慢性的な耳鳴り・・・耳鳴りの方は、どうも祖母の代からの遺伝らしい。
まあ、いずれに関してもなかば諦め加減ではあるが・・・。
あともう一つあった。「偏頭痛」というやつだ。これも小学生からのものであり、歳をとるごとに回数は減ったが、いつの頃からか、ただ痛いだけではなく、いやな症状が出始めた。
まず、視力に違和感を覚える。次に目の前に光り輝くようなヘンな模様が現れ、これは目を閉じても無くならず、ただひたすらに消えるのを待つしかない。そしてそのわけのわからない光模様が消えると、間もなく頭痛が始まるというわけだ。
昔は、もしやなにか重大な病気が・・・と、心配になり、医者に尋ねたりしたが、どうやら典型的な偏頭痛の症状だとのこと。これを聞けば一安心であるが、やはり嫌なものはイヤ。
と、まあこんな症状がそれぞれに少々悪化したので、出来るだけ体を休めるようにしている。
さてさて、江古田校舎の第二回目になるが、前回は何か書き足りない気がしていたのだが、いざ書き足すとなると何があったかな? などと(笑)。
作曲学科の場合、年に二回ほどの「試演会」と呼ばれる作品発表、そして文化祭での作品発表の場があったと記憶している。
実は、わたくし・・・これらの作品発表の場で「演奏拒否!」なるものの経験がある。
その時の演奏者の言葉は、今も胸に残っているな〜 「こんなの出来ない。楽器をおもちゃにせんといて」だった。
う〜む・・・今、思い起こしても別段、楽器をおもちゃにするような冒涜行為をしたつもりもないし、その作品を今見直しても、おもちゃにはしていないと思うのだが・・・ただ、今の時点で見直せば、稚拙な部分が、あることあること、加えてあることあること・・・。
しかし! しかし! そんなつもりは無い、というのはあくまでも私の主観であり、その演奏者(友人)は、とにかくその楽譜をじっくりと見て、そう思ったのだから仕方がない。
そう思われたのは、あくまでも私の責任であり、その演奏者が意地悪だったわけでも、ましてや実力不足を棚に上げて出た言葉でもないのは当然のこと。いや、むしろその演奏者は、かなりの実力者だったし、私の好む音と演奏をしてくれる人物だった。
だというのに(私の責任だというのに)・・・・・・なんということか、その演奏者、卒業式の間際だったろうか、わざわざ私に謝ってくれた。
「あの時は、本当に悪かった。申し訳なかった」と。
いや、確かにその拒否にあったとき、私としてはショックだったが、それはそれで仕方のないことと思っていたし、その作品にしても、代わって別の演奏者が見つかり、お蔵入りになったわけでもなかったのだ。
それをわざわざ謝ってくれるなんて、しかも一年以上も前のことなのに・・・彼はきっと、ずっと心に引っかかるものがあり、気にしていてくれたのであろう。
その時も、何かこちらの方が、かえって申し訳ない気分でいっぱいになった。
その時の彼にも会いたいものだ・・・・もう一度、私の作品を演奏してもらいたい。
そんな優しい気持ちを持っている彼なら、今でも素晴らしい演奏をたくさんの人間に聴かせていることであろう。
Sさ〜ん! 元気にしてますか〜!
話しは替わって。
私は団体行動や学校というものが、それまでずっと嫌いだった。
子供の時分からパニック障害もどきがあったし、いじめられっ子だったし、人見知りがあったし・・・あと「先生」というものに対して、いくつも嫌な思い出があり不信感を持っていたし。
そんなわけで、学校というものを楽しいと感じたことは、まず無かったといってもよい。
しかし、音大に入って、初めて学校って楽しい。団体行動(現代音楽同好会)も楽しい。と、思えるようになった。
なんか笑えますでしょ? この歳(当時の)になってね。
楽しかったですよ〜 志を同じくする仲間がたくさんいて、多少の変わり者も十分に許容範囲(笑)。やはり二十歳前後の人間が集まっているわけですから、互いに尊重し合うということも成り立っているわけです。
当然、私の学校嫌いだった要因も、そこには存在しませんでしたし、先生に関しても大学とは思えないような、アットホームで、尊敬できる方々がたくさんいましたから。
あと、大きいのは、やはり当時の校風でしょうね。足を引っ張り合うわけでもなく、かといって、傷をなめ合うような「なあなあ」の世界でもなく、切磋琢磨出来る部分がたくさんありました。
良い仲間がいました。
もっとも、今、この歳になって思えば、それまでの小中高が悪いところだったということでは決してありません。これは念のために強く申し添えておきます。
特に中高それに専門学校時代の友人には、今でも多少なりとも付き合いのある人間がいますし、思い起こしてもも良い思いでがいくつもあるのです。
私が周りになかなか馴染めなかったという、自分自身の問題もありますし、その他の要因が学校嫌いにさせていたわけですから。
私が新潟に引っ越してから、東京での作品展は今年で二回目でした。
去年も今年も、やはり江古田駅周辺を徘徊しました。
懐かしいものばかりです。
新しい店や建物も増えましたが、街の佇まいはやはり「江古田」です。
私の心の一つは江古田にいつまでも存在し続けるような気がしています。
今回のブログは、いつの間にか一ヶ月半も、間があったのですね。
さぼるとあっという間ですね(笑)。
次回は大学とはちょいと離れて、江古田の街だけを綴ってみようかと思っています。
2009年7月30日木曜日
2009年6月11日木曜日
ふるさと東京-江古田にて-3(江古田校舎のこと-1)
先週どうにかこうにか、作品展のための作曲が終了した。
私のもう一つの方のブログにも書いたが、今回は疲れた。
しかし、いつもよりは満足感があるので、その疲れもよしとしよう。
さてさて、今回は武蔵野音楽大学の三年生、四年生と、大学院生が通う江古田校舎でのこと。思いでもたくさんあるため、おそらくは一回で書ききれないであろう。従ってタイトルが長くなった(笑)。
作曲学科の学生の二年生は、入間校舎から江古田校舎へ来るための(三年生になるための)条件が一つある。
それはフーガを書き、その審査に合格することである。
音大によっては入学時に既に書けなければならないであろうし、うちの大学のように入学してから本格的に勉強するところもあろう。しかし、うちの大学も入学時に作曲の試験があるわけで、いずれにせよ、入学時点で「対位法」を習得していなければ、それなりの作品を仕上げることが出来ないわけであるから、その審査がいつあろうと同じことであった。
母校の名誉のために付け加えておく(笑)。
とはいうものの、厳格フーガを一曲仕上げるとなると、それはなかなか苦労した。対位法というものは、あちらを立てればこちらが立たずとなることが多い。故にテーマを決定するにも一苦労であるし、メインのストレットも当然ながら修羅場(笑)。実を言うと(言わなくとも、私を知る人は既にご存じかとも思うが)、理論関係はあまり好きでは無く、得意でもない。きっちりと決めに決められた形式の中で書くことは苦手・・・フーガなるものは、その最たるものである。
もちろん実力ある人間ならば、そのきっちりとした枠の中で、見事なまでに自己表現出来るわけであるから、要は私の力の無さということであろう。
まあ、どうにかこういか審査にも合格し、無事に江古田校舎に通える身分となった。
正門を入る・・・高校生の折に夏期講習会に通い、憧れた大学の門をくぐった。
右手の方には記念館があり、ここは入試の際に、和声と楽曲の試験が行われたところ。正門から真っ直ぐ10mほど進むと、すぐに校舎である。入間校舎とは違い、ここは練馬区のど真ん中である。従って敷地はさほど広くはない。しかしながら、不思議と窮屈な感じはしなかった。
ホールや図書館、オーディオルーム、大教室、レッスン室、楽器博物館(大学の名物である・一般の方々も曜日によって入館できるので、機会があれば是非とも見学して欲しい)、学食と、所狭しと並んではいるのだが、配置が見事であるのか、広々とした印象が今でも十分に残っている。
入間校舎のときには、校舎から校舎の移動に時間がかかり、割と苦労したことを考えると、江古田校舎は楽なものだった。
あ、朝イチの授業が、入間校舎よりも一時間ばかり早いのが難点・・・・自宅アパートから近い分、同じはずなのだが、なぜかイヤだったな〜(笑)。
私のお気に入りの場所は、校舎二階にあるくつろぎの空間。図書館とオーディオルームに挟まれた部分で、昼になると学生が所狭しと押しかけ、弁当やパンを食べる空間に変わった。
現在では禁煙となっているが、当時は喫煙出来るスペースでもあり、灰皿がいくつも並んでいた。
学食や、校門の外の自動販売機から、缶コーヒーなどを買い、このスペースで一服し、その日あったレッスンの反省や明日の授業の対策を練る・・・・というわけでは、ほとんどなく、単に居心地の良い場所であったということ。
ただね・・・この場所は理論研究室(作曲関係の先生がいらっしゃる部屋)に近いために、お会いすると、少々居心地の悪い想いをせねばならない先生に遭遇する場合も多々あり(笑)。
「曲はできたかね?」「課題は?」
などなど・・・・それからヤマハの販売店も近くだったため、さらにさらにお会いすると都合の悪い先生にも・・・。
とは、いっても何故か居心地がよかった。会いたくない先生などといいながらも、実はお会いして叱責やイヤミを言われるのも、寧ろ楽しんでいたような気がする。
だってね〜 自分のことを気にかけてくださっていなければ、そのようなお小言やイヤミなどは発せずに、素通りされるだけですからね〜。
後期だったかな・・・作品演奏と呼ばれる単位のための審査があった。
作品を書き、それを学内のホールにて演奏。それを先生方が審査するというものである。
大学三、四年次で、何曲も書いたが、私としてはこの時のことが、特に印象深い。
編成は確か・・・ソプラノ、アルト、バリトン、バイオリン×2、フルート、それに指揮者が加わった。本人が嫌がりそうなので(笑)、名前は伏せるが、この時の指揮者、現在は○○○賞の司会なども務めるほどの実力者。
この編成でへんてこなのは、ソプラノの歌い手がバイオリンを持ち替え、バリトンの歌い手がフルートを持ち替えしたこと。しかし、無茶な指定ではない。この二人は玄人はだしにそれぞれの楽器を扱える人物。演奏は指揮者の指導力も相まって、私としては非常に満足のゆくものだった。
もちろん、この作品の演奏は、この時のメンツでなければ成り立たないし、再演など到底不可能。一人はイタリアへ行ってしまったし・・・でも、もう一度生で聴きたいな〜 と、最近よく思う。
この時の演奏者、指揮者には感謝してもしきれないものがある。本当に一生懸命に演奏してくれた。
別にこの時の演奏者だけに感謝しているわけではない。
大学時代、私の作品を演奏してくれた人間は何人もいる。その全ての人に、今でも感謝は忘れない。
大体、私の書く作品はリズムがとてつもなく難しい。ややこしい。複雑・・・プラスして、怪奇、面倒くさい、いい加減にしろ! こんなモンできるか! 楽器のこと知ってんのか! 楽器はおもちゃじゃないぞ! ってなもんで、皆様には苦労をおかけしてしまった。
もっとも現在書く作品ほどではなかったとは思うが。
まあ、大体は作品を書く前に、その作品の演奏を頼むわけだが、私の曲が、ややこしいことを人づてに聞いていながらも、たくさんの方々が演奏を引き受けてくれた。今思い出しても嬉しい。
今にして思えば、よくもこんな書き方をしていながら、演奏してくれたものだと、今更ながらに頭が下がる想い。
みんな何とか音にしてくれようと頑張ってくれた。
あらためて感謝。
あ、楽器のことも様々に彼らから教わった。
特に、関西の滋賀出身だったかな? コントラバスのK氏はどうしているだろうか? 会いたいな〜 うちにも泊まりに来てくれたことがあり、語り明かしたものだった。もし心当たりのある方は連絡くださいね。
と、いうことで、まだまだ書き足りない気がしているので、この続きはまた次回に。
作曲疲れで、どうも本日は長い文章は書けない。
私のもう一つの方のブログにも書いたが、今回は疲れた。
しかし、いつもよりは満足感があるので、その疲れもよしとしよう。
さてさて、今回は武蔵野音楽大学の三年生、四年生と、大学院生が通う江古田校舎でのこと。思いでもたくさんあるため、おそらくは一回で書ききれないであろう。従ってタイトルが長くなった(笑)。
作曲学科の学生の二年生は、入間校舎から江古田校舎へ来るための(三年生になるための)条件が一つある。
それはフーガを書き、その審査に合格することである。
音大によっては入学時に既に書けなければならないであろうし、うちの大学のように入学してから本格的に勉強するところもあろう。しかし、うちの大学も入学時に作曲の試験があるわけで、いずれにせよ、入学時点で「対位法」を習得していなければ、それなりの作品を仕上げることが出来ないわけであるから、その審査がいつあろうと同じことであった。
母校の名誉のために付け加えておく(笑)。
とはいうものの、厳格フーガを一曲仕上げるとなると、それはなかなか苦労した。対位法というものは、あちらを立てればこちらが立たずとなることが多い。故にテーマを決定するにも一苦労であるし、メインのストレットも当然ながら修羅場(笑)。実を言うと(言わなくとも、私を知る人は既にご存じかとも思うが)、理論関係はあまり好きでは無く、得意でもない。きっちりと決めに決められた形式の中で書くことは苦手・・・フーガなるものは、その最たるものである。
もちろん実力ある人間ならば、そのきっちりとした枠の中で、見事なまでに自己表現出来るわけであるから、要は私の力の無さということであろう。
まあ、どうにかこういか審査にも合格し、無事に江古田校舎に通える身分となった。
正門を入る・・・高校生の折に夏期講習会に通い、憧れた大学の門をくぐった。
右手の方には記念館があり、ここは入試の際に、和声と楽曲の試験が行われたところ。正門から真っ直ぐ10mほど進むと、すぐに校舎である。入間校舎とは違い、ここは練馬区のど真ん中である。従って敷地はさほど広くはない。しかしながら、不思議と窮屈な感じはしなかった。
ホールや図書館、オーディオルーム、大教室、レッスン室、楽器博物館(大学の名物である・一般の方々も曜日によって入館できるので、機会があれば是非とも見学して欲しい)、学食と、所狭しと並んではいるのだが、配置が見事であるのか、広々とした印象が今でも十分に残っている。
入間校舎のときには、校舎から校舎の移動に時間がかかり、割と苦労したことを考えると、江古田校舎は楽なものだった。
あ、朝イチの授業が、入間校舎よりも一時間ばかり早いのが難点・・・・自宅アパートから近い分、同じはずなのだが、なぜかイヤだったな〜(笑)。
私のお気に入りの場所は、校舎二階にあるくつろぎの空間。図書館とオーディオルームに挟まれた部分で、昼になると学生が所狭しと押しかけ、弁当やパンを食べる空間に変わった。
現在では禁煙となっているが、当時は喫煙出来るスペースでもあり、灰皿がいくつも並んでいた。
学食や、校門の外の自動販売機から、缶コーヒーなどを買い、このスペースで一服し、その日あったレッスンの反省や明日の授業の対策を練る・・・・というわけでは、ほとんどなく、単に居心地の良い場所であったということ。
ただね・・・この場所は理論研究室(作曲関係の先生がいらっしゃる部屋)に近いために、お会いすると、少々居心地の悪い想いをせねばならない先生に遭遇する場合も多々あり(笑)。
「曲はできたかね?」「課題は?」
などなど・・・・それからヤマハの販売店も近くだったため、さらにさらにお会いすると都合の悪い先生にも・・・。
とは、いっても何故か居心地がよかった。会いたくない先生などといいながらも、実はお会いして叱責やイヤミを言われるのも、寧ろ楽しんでいたような気がする。
だってね〜 自分のことを気にかけてくださっていなければ、そのようなお小言やイヤミなどは発せずに、素通りされるだけですからね〜。
後期だったかな・・・作品演奏と呼ばれる単位のための審査があった。
作品を書き、それを学内のホールにて演奏。それを先生方が審査するというものである。
大学三、四年次で、何曲も書いたが、私としてはこの時のことが、特に印象深い。
編成は確か・・・ソプラノ、アルト、バリトン、バイオリン×2、フルート、それに指揮者が加わった。本人が嫌がりそうなので(笑)、名前は伏せるが、この時の指揮者、現在は○○○賞の司会なども務めるほどの実力者。
この編成でへんてこなのは、ソプラノの歌い手がバイオリンを持ち替え、バリトンの歌い手がフルートを持ち替えしたこと。しかし、無茶な指定ではない。この二人は玄人はだしにそれぞれの楽器を扱える人物。演奏は指揮者の指導力も相まって、私としては非常に満足のゆくものだった。
もちろん、この作品の演奏は、この時のメンツでなければ成り立たないし、再演など到底不可能。一人はイタリアへ行ってしまったし・・・でも、もう一度生で聴きたいな〜 と、最近よく思う。
この時の演奏者、指揮者には感謝してもしきれないものがある。本当に一生懸命に演奏してくれた。
別にこの時の演奏者だけに感謝しているわけではない。
大学時代、私の作品を演奏してくれた人間は何人もいる。その全ての人に、今でも感謝は忘れない。
大体、私の書く作品はリズムがとてつもなく難しい。ややこしい。複雑・・・プラスして、怪奇、面倒くさい、いい加減にしろ! こんなモンできるか! 楽器のこと知ってんのか! 楽器はおもちゃじゃないぞ! ってなもんで、皆様には苦労をおかけしてしまった。
もっとも現在書く作品ほどではなかったとは思うが。
まあ、大体は作品を書く前に、その作品の演奏を頼むわけだが、私の曲が、ややこしいことを人づてに聞いていながらも、たくさんの方々が演奏を引き受けてくれた。今思い出しても嬉しい。
今にして思えば、よくもこんな書き方をしていながら、演奏してくれたものだと、今更ながらに頭が下がる想い。
みんな何とか音にしてくれようと頑張ってくれた。
あらためて感謝。
あ、楽器のことも様々に彼らから教わった。
特に、関西の滋賀出身だったかな? コントラバスのK氏はどうしているだろうか? 会いたいな〜 うちにも泊まりに来てくれたことがあり、語り明かしたものだった。もし心当たりのある方は連絡くださいね。
と、いうことで、まだまだ書き足りない気がしているので、この続きはまた次回に。
作曲疲れで、どうも本日は長い文章は書けない。
2009年5月26日火曜日
ふるさと東京-江古田にて-2(入間校舎のこと)
今年の作品展用の創作がなかなか進まず、随分と日が経ってしまった。
まだ完成したわけではないし、完全に目処が立ったわけでもないが、時間的には、あともう少しといったところだろうか。ちなみに作品展は、東京のすみだトリフォニー小ホールにて、六月二十五日PM7:00開演。チケット予約その他は、作曲家集団・グループNEXTまたは、現代音楽の音書き部屋にて。もちろんネット予約割引ありです。
と、一応は宣伝しておきますので、もしこのブログをご覧の方で、お越しいただける方は、よろしくご来場のほどを、お願い申し上げます
江古田のアパートひばり荘にて、大学生活がスタートした。
大学一年、二年は江古田から西武線にて、入間市の仏子(ぶし)までの通学である。どれくらい時間がかかったであろう・・・電車に乗る時間が40〜50分、歩きや待ち時間を合わせて一時間半くらいだったであろうか。
短い時間では無かったが、長すぎる時間でもない。電車の中では朝刊を読み(貧乏生活だというのに、なぜか新聞だけは欠かさなかった)、必要があれば授業の予習(いや、勤勉だからではなく、課題が間に合わなかったとき・・・)、そして車窓からの景色を眺める。
この景色がなかなかよかった。今はどうかわからないが、清瀬、秋津付近や所沢を過ぎた辺りでは、大自然真っ只中で、朝陽に輝く木々の青さに感動し、遠くの眺めに目を細めたものだ。
やはり東京に住むと緑を懐かしむ気持ちは大きくなる。公園や街中には植樹が賑わってはいたが、やはりほんまもんの自然は違う。決してスケールが大きな場所でなくとも、元から存在していたものと、人の手によって造作されたものの違いは明か。毎日何らかの自然を、電車通学によって感じ取ることが出来たのは大きかった。
時折、乗車が同じになる友人たちとの、ちょっとした語らいも良い思いで。
大学のある仏子に到着すると、閑静な住宅街を50mほど歩き、大学の門に到着(いや、この敷地内の最初にあったのは、門というほどものではなかったかな)、そこから校地内バスに乗るわけだ。なにぶんにも敷地に入ってから、講義を受ける校舎にたどり着くためには、山登り状態の道であるため、バスが存在していた。
このバスを一本逃したり、満員で乗れなかったりすると大変なことになる。出席票を始めに集める授業であったりすると、当然のことながら遅刻扱いとなってしまう。
そのため、あちらこちらで、発車するバスに乗る友人に向かって、「これ頼む〜っ!」と、出席票を手渡す姿が(笑)。かくいう私も、そのような不正をはたらいたことのある一人である。
しかし、午後からの授業であったり、一限の授業がなかったりしたときは、この入り口からのバスの本数はめっきりと少なくなってしまうため、徒歩での入山となる。
右手に小さな山を臨みながら、校地内レストラン(学食ではあるが、一応つくりはレストランで、多少値の張るものがあり(まあ学食レベルでの値段だが)、校舎群の女子寮内にある学食が昼のみであるのに対し、夕方までは営業していた)を過ぎ、ちょっとしたハイキングコースのような山登り・・・。
新緑の季節など、特に気持ちよい道ではあったが、運の悪いことに授業がフルコース(講義、作曲レッスン、体育、副科ヴァイオリン)の時があり、教科書はめいっぱい、体操着、ヴァイオリン、楽譜と重いのなんの、かさばるのなんの・・・この日ばかりは遅刻は出来なかった。
しかし、帰宅時間に丁度校地内バスが無いと、歩いての下山である。まあ山道の下山は楽ではあったが、その後は、やはり多い荷物に閉口したものだ。
校舎群であるが、真っ白な建物が並び、そのなかにいくつもの講義室、図書室、オーディオルームなどがあり、快適そのもの。見た目にも美しく、初めてこの敷地内に入ったときから感動したものだ。
それからバッハザールと呼ばれるホールがまた立派! 入学式などもここで行われたが、音楽大学に入れたんだな〜 と、実感できたものだ。この入学式の折りに、萩原秀彦氏の作曲されたオルガン曲が流れ、これも印象的であった。
それからグラウンドも整備されており、広々としたところでの体育の授業も、いやいやながら(笑)、気持ちの良い時間でもあった。
特にこの頃の友人、先輩、後輩たちとの思いでは尽きない。
授業の予習を手分けしてやったり(笑)、得意分野を教えあったり、伴奏を頼んだりと、よい思い出が連なる。そのほとんどとは連絡を取り合ったりはしていないが、みんな元気であろうか。
卒業後も私は江古田近辺に住み続けていたので、何年間かは偶然に江古田で会ったりしていたが、時が経つにつれて、それもほとんど無くなってしまった。
今となっては、せめて年賀状のやりとりだけでも続けていればよかったと後悔している。
私の専攻である「作曲」に関しては、大学の一年では、確か g moll のフルートとピアノのデュオを書いたと記憶しているが、私はこの試演会で悟った。
調性音楽は私には書けない・・・と。あっさりと調性音楽に挫折してしまった。
まあ、要するに大失敗作であったわけだ。楽器の使い方から音楽の流れや技法に至るまで、そのほとんどに自身でも不満だらけ・・・ましてや私を教えていた師匠に至っては、どれほどのストレスをおかけしてしまったことやら・・・申し訳ありません。
というわけで、二年の試演会では、初めての無調音楽に挑戦。弦楽四重奏であったが、書いていて楽しかった。やっと自分の居場所が見つかった気分を味わえたが、これも大いなる勘違いで、今その楽譜を見直せば、当然ながら赤面ものであり、よくぞこんなせこいテーマで書いたものだと、失われた過去を取り戻したい気分となってしまう。
なんだか、増四度と半音階の固まりばかりで、こうすれば簡単に調性音楽ではなくなりますよ、というだけの音並び。
あ〜 恥ずかしい恥ずかしい。
もっとも・・・・今も同じようなものかも知れないが。
と、いうことで次回は、大学三年、四年の頃のお話し、肝心の江古田界隈のことは、その次ということになろうか・・・または次回に一緒に書いてしまうか。
いずれにしても、現在作曲中の作品を完成してから。
まだ完成したわけではないし、完全に目処が立ったわけでもないが、時間的には、あともう少しといったところだろうか。ちなみに作品展は、東京のすみだトリフォニー小ホールにて、六月二十五日PM7:00開演。チケット予約その他は、作曲家集団・グループNEXTまたは、現代音楽の音書き部屋にて。もちろんネット予約割引ありです。
と、一応は宣伝しておきますので、もしこのブログをご覧の方で、お越しいただける方は、よろしくご来場のほどを、お願い申し上げます
江古田のアパートひばり荘にて、大学生活がスタートした。
大学一年、二年は江古田から西武線にて、入間市の仏子(ぶし)までの通学である。どれくらい時間がかかったであろう・・・電車に乗る時間が40〜50分、歩きや待ち時間を合わせて一時間半くらいだったであろうか。
短い時間では無かったが、長すぎる時間でもない。電車の中では朝刊を読み(貧乏生活だというのに、なぜか新聞だけは欠かさなかった)、必要があれば授業の予習(いや、勤勉だからではなく、課題が間に合わなかったとき・・・)、そして車窓からの景色を眺める。
この景色がなかなかよかった。今はどうかわからないが、清瀬、秋津付近や所沢を過ぎた辺りでは、大自然真っ只中で、朝陽に輝く木々の青さに感動し、遠くの眺めに目を細めたものだ。
やはり東京に住むと緑を懐かしむ気持ちは大きくなる。公園や街中には植樹が賑わってはいたが、やはりほんまもんの自然は違う。決してスケールが大きな場所でなくとも、元から存在していたものと、人の手によって造作されたものの違いは明か。毎日何らかの自然を、電車通学によって感じ取ることが出来たのは大きかった。
時折、乗車が同じになる友人たちとの、ちょっとした語らいも良い思いで。
大学のある仏子に到着すると、閑静な住宅街を50mほど歩き、大学の門に到着(いや、この敷地内の最初にあったのは、門というほどものではなかったかな)、そこから校地内バスに乗るわけだ。なにぶんにも敷地に入ってから、講義を受ける校舎にたどり着くためには、山登り状態の道であるため、バスが存在していた。
このバスを一本逃したり、満員で乗れなかったりすると大変なことになる。出席票を始めに集める授業であったりすると、当然のことながら遅刻扱いとなってしまう。
そのため、あちらこちらで、発車するバスに乗る友人に向かって、「これ頼む〜っ!」と、出席票を手渡す姿が(笑)。かくいう私も、そのような不正をはたらいたことのある一人である。
しかし、午後からの授業であったり、一限の授業がなかったりしたときは、この入り口からのバスの本数はめっきりと少なくなってしまうため、徒歩での入山となる。
右手に小さな山を臨みながら、校地内レストラン(学食ではあるが、一応つくりはレストランで、多少値の張るものがあり(まあ学食レベルでの値段だが)、校舎群の女子寮内にある学食が昼のみであるのに対し、夕方までは営業していた)を過ぎ、ちょっとしたハイキングコースのような山登り・・・。
新緑の季節など、特に気持ちよい道ではあったが、運の悪いことに授業がフルコース(講義、作曲レッスン、体育、副科ヴァイオリン)の時があり、教科書はめいっぱい、体操着、ヴァイオリン、楽譜と重いのなんの、かさばるのなんの・・・この日ばかりは遅刻は出来なかった。
しかし、帰宅時間に丁度校地内バスが無いと、歩いての下山である。まあ山道の下山は楽ではあったが、その後は、やはり多い荷物に閉口したものだ。
校舎群であるが、真っ白な建物が並び、そのなかにいくつもの講義室、図書室、オーディオルームなどがあり、快適そのもの。見た目にも美しく、初めてこの敷地内に入ったときから感動したものだ。
それからバッハザールと呼ばれるホールがまた立派! 入学式などもここで行われたが、音楽大学に入れたんだな〜 と、実感できたものだ。この入学式の折りに、萩原秀彦氏の作曲されたオルガン曲が流れ、これも印象的であった。
それからグラウンドも整備されており、広々としたところでの体育の授業も、いやいやながら(笑)、気持ちの良い時間でもあった。
特にこの頃の友人、先輩、後輩たちとの思いでは尽きない。
授業の予習を手分けしてやったり(笑)、得意分野を教えあったり、伴奏を頼んだりと、よい思い出が連なる。そのほとんどとは連絡を取り合ったりはしていないが、みんな元気であろうか。
卒業後も私は江古田近辺に住み続けていたので、何年間かは偶然に江古田で会ったりしていたが、時が経つにつれて、それもほとんど無くなってしまった。
今となっては、せめて年賀状のやりとりだけでも続けていればよかったと後悔している。
私の専攻である「作曲」に関しては、大学の一年では、確か g moll のフルートとピアノのデュオを書いたと記憶しているが、私はこの試演会で悟った。
調性音楽は私には書けない・・・と。あっさりと調性音楽に挫折してしまった。
まあ、要するに大失敗作であったわけだ。楽器の使い方から音楽の流れや技法に至るまで、そのほとんどに自身でも不満だらけ・・・ましてや私を教えていた師匠に至っては、どれほどのストレスをおかけしてしまったことやら・・・申し訳ありません。
というわけで、二年の試演会では、初めての無調音楽に挑戦。弦楽四重奏であったが、書いていて楽しかった。やっと自分の居場所が見つかった気分を味わえたが、これも大いなる勘違いで、今その楽譜を見直せば、当然ながら赤面ものであり、よくぞこんなせこいテーマで書いたものだと、失われた過去を取り戻したい気分となってしまう。
なんだか、増四度と半音階の固まりばかりで、こうすれば簡単に調性音楽ではなくなりますよ、というだけの音並び。
あ〜 恥ずかしい恥ずかしい。
もっとも・・・・今も同じようなものかも知れないが。
と、いうことで次回は、大学三年、四年の頃のお話し、肝心の江古田界隈のことは、その次ということになろうか・・・または次回に一緒に書いてしまうか。
いずれにしても、現在作曲中の作品を完成してから。
2009年5月4日月曜日
閑話休題
ここのところふるさとシリーズを書いているが・・・もっともブログタイトルがこれだから、当然といえば当然か(笑)。
しかしまてよ。まだふるさとの思いでだけで埋め尽くせるほどの人生経験には足りない。
どのみちふるさと以外の話題に行かざるを得ないということか。
このブログタイトル失敗だったかな(笑)?
まあいいか。
なんだかとりとめが無くなりそうだが、実は作品展が近いというのに、まだまだ作品の完成にほど遠い。
今回のテーマが自分にとって少々重すぎたような気もしている。細かくは絶対に語らないが(わたしは自作品を語るのが大嫌いな質でして)、少しだけ話すと、自然の中のある場面を思い描きながら書き進めている。
これは重い。
書こうとしてもあまりにも厳しく、とても自分ごときの手に負えないことを、書けば書くほどに身にしみ、筆が進まなくなってしまうのだ。
今の自分には、いや未来の自分であっても、一生書けないような気分。
まあ少しでも、その断片でも表せれば御の字というところか。
断片でも無理だろうな〜
あ〜 辛い。
などと愚痴っていても始まらないので、とにかく一生懸命に書き進めるしかない。
なにしろ、来場してくださるお客様は、そのほとんどが貴重なお金を払ってチケットを買ってくださる方々。
お金を払っていただく以上、こちらも必死に進めなくてはならない。
書かねば書かねば書かねば。
自然は雄大で厳しいですね〜
あ、いかん書き忘れていた。ここ何回かのふるさとシリーズは、前回書きましたように、もうちょいと作品が進んでから。
しかしまてよ。まだふるさとの思いでだけで埋め尽くせるほどの人生経験には足りない。
どのみちふるさと以外の話題に行かざるを得ないということか。
このブログタイトル失敗だったかな(笑)?
まあいいか。
なんだかとりとめが無くなりそうだが、実は作品展が近いというのに、まだまだ作品の完成にほど遠い。
今回のテーマが自分にとって少々重すぎたような気もしている。細かくは絶対に語らないが(わたしは自作品を語るのが大嫌いな質でして)、少しだけ話すと、自然の中のある場面を思い描きながら書き進めている。
これは重い。
書こうとしてもあまりにも厳しく、とても自分ごときの手に負えないことを、書けば書くほどに身にしみ、筆が進まなくなってしまうのだ。
今の自分には、いや未来の自分であっても、一生書けないような気分。
まあ少しでも、その断片でも表せれば御の字というところか。
断片でも無理だろうな〜
あ〜 辛い。
などと愚痴っていても始まらないので、とにかく一生懸命に書き進めるしかない。
なにしろ、来場してくださるお客様は、そのほとんどが貴重なお金を払ってチケットを買ってくださる方々。
お金を払っていただく以上、こちらも必死に進めなくてはならない。
書かねば書かねば書かねば。
自然は雄大で厳しいですね〜
あ、いかん書き忘れていた。ここ何回かのふるさとシリーズは、前回書きましたように、もうちょいと作品が進んでから。
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